常総レールウェイの誕生は、夢への挑戦と、挫折の繰り返しだった。

このページでは、長すぎた開業までの歴史を振り返る。

つくばに鉄道を

 広大な農地が広がっていた茨城県筑波山麓に、国の機関や大学が移転することが決まったのは、1963年秋のことだった。その後、筑波研究学園都市建設法の後押しなどもあり、70年代にかけて都市建設と各種機関の移転が進んでいき、筑波研究学園都市は一つの「街」として成長していった。

 だが、当時筑波山麓に近接する路線は国鉄常磐線、関東電鉄常総線、筑波鉄道(1979年に関東鉄道より分離)の3路線しかなく、そのいずれも肝心の筑波研究学園都市をかすめていなかった。このため、この街を訪れる場合、常磐線の各駅からの路線バスに頼るしかなかった。この地と東京を結ぶ鉄道路線の計画すら、戦前の筑波高速度電気鉄道以来、ない。

 そこで、筑波研究学園都市に通う人々や地元住民は、対東京への鉄道路線を切望していたのである。

 

 そんな筑波研究学園都市に転機が訪れる。1981年4月22日、1985年につくばで万博が開催されることが発表された。テーマは「人間・居住・環境と科学技術」。約半年の会期中、かつてないほど多くの人々が、この地で開催される万博を楽しむことだろう。その万博会場に、定時性と大量輸送を約束された、鉄道がなかったのだ。

 これはビジネスになる。そう目論んだのは、千葉県野田市のいち物流会社。江戸時代より利根川水運により巨大な富を得ており、水運がトラック輸送に代わっても経済発展をバックに成長を続けてきた。千葉県野田市もまた、東京まで一本で行ける鉄道路線が存在せず、筑波研究学園都市と同じ悩みを抱えてきた。

 1981年、さっそく物流会社のオフィスの一室を貸し切り、常総鉄道を設立。4年間で万博会場周辺と東京都内を結ぶことを目指し、用地買収を始めた。そのルートは、筑波研究学園都市から水海道市を通り、オフィスの存在する野田市東部、流山市江戸川台、草加市…と北から南へ選定が行われた。この時期、山手線の西側のターミナルが私鉄の終着駅ということで大きく発展していたこともあり、最終的なターミナルはそのうちの一つ、池袋に決まった。当時の鉄道開発ではタブー視されてきた、放射路線を横切る計画は、この時生まれたのだった。

 さらに同時期、常総鉄道とは別に水戸から万博会場に直接アクセスする路線も計画された。茨城県一帯に事業所を持つ総合機械メーカーが後ろ盾となり開発が進められた、茨城高速鉄道だ。水戸から笠間、石岡市北部(常総の大覚寺駅周辺)を通り、そこから一気に筑波山の東側を南下するというものだった。吾国山を貫く長大トンネルも、1984年に貫通している。

 

 この両者は、計画段階から筑波研究学園都市でつながることになった。そこで、両社は業務提携を行い、国鉄常磐線に代わる水戸~東京の新たな移動手段として、将来的な直通運転を含めた取り組みを行ったのである。

潰えたつくばへの鉄路

 順調に動き始めた、つくばへの二つの鉄路だったが、常総鉄道に早速二つの難題が訪れる。

 一つは、この先も常総レールウェイ開業に至るまで苦しめ続けられる、石岡市の地磁気観測所である。筑波研究学園都市からほど近いところに観測所が存在したため、当時首都圏の多くの路線で採用されていた直流電化による開業ができないことは自明だった。その上、直通運転を行うことを約束した茨城高速鉄道では、全て交流車両を走らせる計画だったため、その車両を池袋まで運転させなければいけなかった。乗り入れ車を交直両対応とし、デッドセクションを設けようとする声も上がったが、検討を重ねた結果、池袋~つくばの全線を建設費用の高い交流電化で建設することになってしまった。

 それ以上に大きな難題は、計画線周辺の人口急増である。当時、東京ではドーナツ化現象により周辺地域に家を求める世帯が増え、通過予定地の流山市や草加市でもその現象が見られた。このため、新規に鉄道路線を敷こうとしても用地がなく、用地の取得に多くのお金と労力がかかった。

 さらに、茨城高速鉄道も高度経済成長が終わったことにより、親会社からの資金援助が受けられなくなり、資金難に直面した。水戸から西進し、吾国山のトンネルが完成したところで、以南の建設の目途が立たなくなってしまう。

 

 そして、つくば万博が開幕した1985年3月17日、その会場周辺に電車の姿はなかった。メインアクセスは、常磐線の万博中央駅(現:ひたち野うしく駅)からのバスとなり、数年前に「万博向けの鉄道」と騒がれていた常総鉄道や茨城高速鉄道は、筑波研究学園都市にまで路線を敷くことができなかったのである。万博という最大の需要の当てを失った茨城高速鉄道は、多額の負債を抱えて1985年、万博の閉幕から1週間後に倒産している。

 また、遅々として建設が進まない常総鉄道にも、最悪と言えるニュースが飛び込んでくる。この年の7月11日、運輸政策委員会第7号答申が発表され、東京と筑波研究学園都市の間を守谷経由で結ぶ、いわゆる「常磐新線」が計画に盛り込まれたのである。その2年前から、茨城県が主体となって新線建設の検討が始められていたが、そこでは千葉県の業者である常総鉄道は眼中になかったのである。

 この時点で、常総鉄道が工事を完成させた区間は、本社のある三ツ堀~水海道の間、そして集中的に投資を行ってきた池袋~新里町(埼玉県に入ってすぐの駅)の間のみ。今更守谷経由に変更することはできなかった。この段階で、常総鉄道による対東京路線の建設は不要とされ、茨城県区間の工事を請けた建設会社が次々と離れていった。

 こうして、つくばへのアクセスは常総鉄道ではなく常磐新線により行われることとなり、つくばを目指した常総鉄道の夢は、ここで終わってしまうのである。

 

 なお、常磐新線は2005年8月24日、「つくばエクスプレス」として開業し、秋葉原~つくば間を45分で結んでいる。

筑波山への目的地変更

 つくばという最大の需要を取り上げられた常総鉄道は、それでも諦めなかった。工事が完成した区間を、一日でも早く開業させたい。そこで、目を付けたのが筑波研究学園都市の北側に位置する、筑波山である。四季を通じて観光に適している筑波山までダイレクトに結ぶことができれば、それなりの需要は見込める。常総鉄道は、既に工事の完成した水海道から北上し、筑波山の西側の麓を目指した。

 その終着駅は、土浦と岩瀬を結んでいた筑波鉄道の酒寄駅周辺。この時、筑波鉄道は既に路線廃止の方針を打ち出しており、国鉄民営化の行われる1987年4月にバス路線に転換されることが決まっていた。筑波山に鉄道がなくなることを危惧した地元は、常総鉄道のルート変更に理解を示した。土地の取得も容易だったこの区間の建設は、着々と進むように思えた。

工事差し止め そして東武の裏切り

 しかし、一度は建設を許可した茨城県から待ったの声がかかった。水海道~筑波山の路線が、そのまま池袋まで直通運転することが分かると、県は手のひらを返したように、常総鉄道の工事差し止めを決定する。既に答申で提言された常磐新線の投資効果が減殺されてしまうのが、県の主張だった。

 この決定に際し、筑波山周辺の住民は賛否両論真っ二つに分かれることとなるが、これにより筑波山方面への路線延伸もできなくなった。工事は、水海道と筑波山の中間地点である今鹿島で中断してしまう。

 

 さらに、用地取得に難航していた東京方面でも動きがあった。長いこと複線であったため、ラッシュ時には相当の混雑が発生した東武伊勢崎線が、1988年に草加まで複々線となった。以北も北越谷まで複々線を開業させるという計画があったため、草加市内では常総鉄道と東武鉄道が、同時期に鉄道関連の大規模投資を予定していたのである。

 だが、建設に携わる人手の数は限られていた。常総鉄道は草加周辺の業者に建設を依頼したが、東武鉄道側が「いつ開業するか分からない鉄道に投資すべきではない」と建設業者に売り込んだことから、業者はみな東武鉄道の複々線化事業を手掛けるようになる。

 

 その他にも、新しい住宅地周辺住民が鉄道開発に反対するなどしたため、新里町~三ツ堀間の工事はその後も断片的にしか進展しなかった。既に工事の完了した区間だけでも開業できればよかったが、三ツ堀以北の区間では東京方面と結ばれていないただのローカル線であった。都内区間でも豊島車庫が隅田川と大規模公団住宅に挟まれていたため車両の搬入ができず、車両の調達ができる三ツ堀まで線路がつながる日を待つしかなかった。

 そして、バブル崩壊に伴う景気悪化で資金の調達ができなくなり、常総鉄道は完成した鉄路を大量に残したまま、一度も営業運転をすることなく1994年に倒産した。

真壁の公共交通を守れ

 その後、常総鉄道や茨城高速鉄道の建設した区間に電車が走ることがないまま、21世紀に突入した。インターネットの普及により、都内や茨城県内に残る大規模な未成線がマニアの間で広く紹介されることになり、いつの間にか「鉄道建設最大の悲劇」などと揶揄されるようになった。だが、個人の力ではどうすることもできず、その沿線で日暮里・舎人ライナーやつくばエクスプレスが開業していく中、本来の使命を果たすことのないコンクリートは雨風にさらされ続けていた。

 

 次に大きな動きがあったのは、茨城県桜川市真壁地区に沸き起こった、公共交通存続論である。かつての筑波鉄道に代わり、土浦と岩瀬の間を結んでいたバス路線は、2008年に真壁以北の区間が廃止され、朝夕に細々と走る筑波山口(上述の酒寄とほぼ同じ場所)~真壁間も廃止が時間の問題とされていた。

 そこで、自らの手で公共交通機関を確保しようと、2009年春に第3セクター方式の真壁鉄道を設立した。不便なバス路線ではなく、住民が気軽に利用できるような鉄道路線の開業を目指し、真壁鉄道は茨城県内の建設会社に働きかける。計画されたルートはバス路線と同様の土浦~真壁であるが、つくばエクスプレスつくば駅を経由するルートとし、都心からのアクセスを意識するものとした。

 公共交通存続に対する危機から、地元自ら立ち上がった真壁鉄道の動きは、たびたび「勇気ある行動」とマスコミに伝えられ、彼らの情熱は人々の大きな注目を集めることになった。

 

 だが、その熱い想いも、現実に跳ね返されてしまう。真壁のモータリゼーションは既に手遅れのところまで達していたのだ。鉄道路線が建設されるさなか、関東鉄道バスが2011年3月いっぱいで真壁までの運行を廃止すると発表した。真壁の公共交通に残された時間はなく、真壁鉄道は一部区間だけでも2011年4月に開業させようと工事を急いだ。

 しかし、真壁鉄道に最期の時が訪れる。2011年3月に太平洋沿岸で起こった巨大地震は、茨城県内にも大きな被害をもたらした。人手や機械がみな、復興のために真壁鉄道から離れていった。真壁鉄道そのものの被害もどれだけになるか分からなかった。

 結局、万策尽きた真壁鉄道は2011年3月31日、鉄道建設を断念。そしてその日、真壁から最後の路線バスが出発し、真壁の公共交通の灯は消えてしまった。

挫折の全てを一つに

 真壁鉄道の事業中止により、またしても開業できずに終わった鉄路が増えてしまった。「常総方面への新線開発は呪われている」と噂され、地元住民でさえも「新線なんてない、幻だった」と口を揃えるようになった。

 しかし、真壁鉄道の見せた行動に、男たちが立ち上がった。それは、新しい路線の開業を夢見てかつて常総鉄道に入社した、当時の若手社員たちである。志半ばでの倒産となり、その後様々な道で活躍していた社員たちが、当時流行り出していたSNSで集まった。その目的は、再び筑波山までの鉄路を開業させることだ。

 この時、真壁鉄道は筑波山の麓に駅を作っていた。そして、そこから今鹿島・つくば方面の高架建設もある程度進んでいた。これらはみな、1980年代後半に常総鉄道が建設したくてもできなかったものである。

「常総鉄道は今鹿島までの鉄路を拓いた。あと少しで、真壁鉄道の建設した高架につながる」

 それは集まったほとんどの人が心に抱いていたものだった。電車の走らない断片的な鉄路をつなぐことができれば、短い区間ではなし得なかった効果が表れる。それは、東京側の三ツ堀以南でも同様であった。

「挫折の全てを一つに合わせれば、池袋から筑波山まで一本の路線になる!」

 

 こうして新会社は「常総レールウェイ」として2011年12月に発足し、まず真壁鉄道より事業計画の全てを買い取り、真壁鉄道の開業させようとした今鹿島~真壁および今鹿島~土浦間の残りの工事に着手し始めた。常総レールウェイ開業までのカウントダウンが、いよいよ始まったのである。

建設費さえ出せれば

 一方、断片的に完成箇所のある三ツ堀以南でも、用地の買収が進められた。つくばエクスプレスが、予想もしなかったほど好評を博し、ラッシュ時には混雑も見られたことから、その混雑緩和に一躍買うと期待された新路線に、地元自治体も理解を示し始め、用地取得を後押しした。かつて「常磐新線の投資効果を減殺する」と黙殺した茨城県も、池袋までの直通路線推進に転じた。

 しかし、問題となったのは建設費である。ただでさえ、大量の未成線を保有するだけでも大きな負担であるにもかかわらず、草加駅周辺や江戸川台駅周辺では地下に路線を建設しなければいけなくなり、トンネル建設費の負担が常総レールウェイにとって重くのしかかった。

 そもそも、常総鉄道が初期に建設した区間は、全線交流電化を目指していたこともあり、トンネルの断面を直流電化よりも大きく取っていた。しかし、新たに建設するトンネルで断面を大きく取れば、それだけ建設費がかさんでしまう。建設会社は口を揃えて、直流電化での開業であれば工事を引き受ける、と交流電化にこだわる常総レールウェイと対立した。会社と地元の対立が、再び工事をストップさせようとしていたのである。

 だが、この状況の中で、一人の若手社員がこう言った。

「そもそも、鉄道路線は地元と共存しなければいけないもののはずです。北部が交流電化なのも、地磁気研究所との共存の為じゃないんですか。だから、できる限り地元の意見は聞いてやらないといけないと思うのです」

 その声に、反対する者はいなかった。東京に近い区間を直流電化にし、デッドセクションを設けたほうが安上がりだった。三ツ堀に作っていた車庫を直流車の車庫にし、そこから水海道までの間にデッドセクションを設けることになった。これにより、利根川沿いにあった交流用の変電施設1ヵ所を潰すことになるが、それは致し方のない支出だった。

 こうして、池袋~真壁間と、支線となる今鹿島~土浦間の鉄路が、完成に近づいた。

加波山の先に光あり

 ところで、筑波山周辺や埼玉県内で未成線同士をつなぐ工事が盛んに行われていた頃、もう一つの未成線には全く目が向けられていなかった。それは、かつて水戸からつくばを目指して建設が進められていた、茨城高速鉄道による遺構である。常総レールウェイが終点として目指した真壁と、茨城高速鉄道が最後に建設した吾国山のトンネルは、この段階で加波山を挟んで向かい合うことになった。

 全ての挫折を一つに。このスローガンを掲げた会社が、茨城高速鉄道の手がけた鉄路を見捨てるわけにはいかなかった。


 しかし、両者を繋ぐには、加波山の真下を通るトンネルを建設しなければならない。それどころか、もし繋がれば、この鉄路の目的地は筑波山ではなく水戸となり、1980年代から目指してきた筑波山アクセス路線とは180度性格が変わってしまう。このため、社内では加波山をトンネルで貫くことに賛成と反対が真っ二つに分かれた。

 ところが、意見がまとまらない中、この対立を聞いた元茨城高速鉄道の社員が、常総レールウェイを訪れた。彼が持ってきたのは、「常総鉄道と茨城高速鉄道の相互直通運転に関する覚書」という、もはや字もかすれかけた文書だった。いつか、東京までの鉄路がつながることを夢見て、会社がなくなった後も、自宅で大切に保管していたのだった。

 この時代の常総鉄道を知っている者は、常総レールウェイの社員には、もはや一人もいなかった。しかし、突然現れた彼は、常総鉄道が本当に向かうはずだった場所を教えてくれた。常磐線に頼らない、都内~水戸のアクセスだと。


 こうして、常総レールウェイは水戸という遥かな目的地を目指し、加波山トンネルの建設に乗り出したのだった。わずか8kmの新線建設には、埼玉県内の建設とほぼ同額の費用を要することになったが、夢を捨てきれなかったのである。

足かけ35年の夢 ついに叶う

 夢と挫折を繰り返した、常総レールウェイの鉄路たちは、2015年9月、八潮市内で最後の高架が完成したことで、一つに結ばれた。常総鉄道が初めて建設に乗り出した1981年から数えると、足かけ35年にも及ぶ歳月が経過したが、池袋から水戸まで達した路線に、常総レールウェイの社員たちは、その日うれし涙を流したのだった。

 様々な経緯を経て開業した常総レールウェイ。その鉄路に託された使命は全部で四つある。

 

 1.都内~水戸までのハイスピードアクセス

  水戸までの開業。それはJRとの真っ向勝負。対東京で、常磐線に負けるわけにはいかない。

  160km/h運転の高速特急は、全線が高規格路線として建設されたことで手にした強みだ。

 2.筑波山へのダイレクトアクセス

  筑波山への鉄道が失われて以来となる、筑波山の麓までの鉄路。唯一とも言っていい観光地だ。

  数十年抱いていた想いを胸に、観光路線としての性格をアピールする。

 3.人の集まる場所に身近な路線

  路線は、既に開発された住宅地を多く通り、開発は地元の方々の支援のもと行われた。

  だからこそ、地元の人々にとってもっと身近な路線でありたい。

 4.今までになかった交通ネットワークの可能性

  公共交通存続運動から新路線が生まれた真壁をはじめ、人々が待ち望んだ路線を多く抱える。

  その可能性を実現させた鉄道として、人々に愛されたい。

 

 こうして、いくつもの希望や夢を乗せ、常総レールウェイは2016年4月1日、ついに開業しました!

路線建設の足取り